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『老死に向き合う』中村🍀

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私の近しい親類には、亡くなる前に認知症だった人が3人います。1人目は曾祖母(母方)。2人目は祖母(母方)。そして最近亡くなった義母(妻の母)です。

曾祖母は私が5歳の時に亡くなったのですが、この曾祖母の事をうっすらでも憶えているのは私だけのようで、亡くなる前、父の転勤で北海道に行く事の報告をしに母が私を連れて、当時曾祖母が入所していた特養に面会に行ったそうなのです。その時の記憶が幼児であった私の記憶に残っていたことを、社会人になって母に話したことがあります。

「ちっちゃいばあちゃん(曾祖母)認知症だったの?特養みたいな施設で、なんか牢屋みたいな部屋におんなはった記憶があるんだよね?」と。母からすると、ちっちゃいばあちゃんと呼ばれていた曾祖母を、私がそう呼んだことに驚いており、確かにそんな部屋で徘徊しないように抑制されていたと、それが特養のOOではなかったか?と尋ねましたら、その通りでした。40年以上前にはそんな部屋を持つ施設があったんですね。

2人目は祖母です。最後の頃は熊本市外の特養で祖父と仲良く入所しており、優しい人柄だった祖母は激しい気質になってしまい、車椅子の祖父がいつもなだめていました。彼女は何人もいる孫の中で唯一私だけ憶えてくれていました。当時私以外の孫は県外在住でしたし、私はしょっちゅう面会に行っていましたから当然なのですが、帰省した従弟たちは「ばあちゃんボケてるから会うと悲しくなるから会わずに帰るよ」などと言って疎遠になっていましたので、そりゃぁ忘れられますよね。最期は誤嚥性肺炎をこじらせて危篤となり、たまたまでしたが当施設の嘱託医が主治医で、「救急搬送されてくるから中村君早く来なさい!」と院長から連絡いただき、最後の瞬間、救急蘇生(心臓マッサージ)をやめてもらう判断をしたのが私でした。

そして3人目が義母。昨年11月末に77歳で亡くなり、1/17には無事に四十九日も行えました。少人数の身内でもちろん会食もなしです。…彼女は、なぜか私の名前を「猛」と呼び捨てにする人でした。そもそも、左上肢欠損の障害があり、負けん気の強さは半端なく、会社経営者でしたので、結婚当時から苦手意識がある上、身内の誰もが呼び捨てにされないのに、義理の息子の私だけを呼び捨てにされることが大変に違和感でした。

アルツハイマーの診断が出される2年ほど前から義母の変化に私は気づいており、妻にだけは伝え、色々と手伝ってやるようにと言ってありました。義兄に義母の様子について相談された時には、もう十分に認知症だとはっきり思える状態で、専門医の受診をすすめ、早く社長業から引退させてあげるように助言しました。経営上色々あったようで引退のタイミングが遅れたのですが、その後は、交流のあるケアマネを紹介し介護保険の申請、専門医の受診や介保サービスの組み立て、特養申請などなど私がほぼ行いました。私なりに義母の老死に向き合ってやれたことは悔いはありません。

たまたま仕事が重なり、私自身、本葬の1日だけ忌引きを使い参列しましたが、義父と義兄に、「猛君が今日来れんかったら化けて出て来らすところだったな。呼び捨てにされとるだけあって、母さんも俺たちもこの2~3年は猛君にえらい世話になりました」と頭を下げられました。私が義母にかわいがられていたと、特に義兄から言ってもらえました。当然ながら最期の頃は私を見ても「猛」とは呼んでもらえなくなりましたが、それを受け入れられる福祉の経験が、老死と向き合えたものとなっています。

3人が3様でしたが、私が母と共にしっかりと記憶していた人。私を最期までしっかりと忘れず看取った人。私を最初から特別扱いし、最後は私を含め全てわからなくなった人。その時々の私が私なりで関わり、老死に向き合った経験をお話しました。

 

追伸:母方の家系は認知症の人が多いので、遺伝性のものとハッキリとは言われていませんが、認知症は遺伝するという記述もあり、私も将来認知症になってしまわないかと、最近忘れっぽいので、自身で気を付けるのは勿論ですが、誰かが早めに気づいて私に寄り添ってくれることを願います。因みに父方はガンの家系です。   とほほ...

 

あかつき・施設長・中村 猛🍀