「”もてなしの基本は、相手によって対応を変えない”ということで、歓待の本義は、多分それに尽くされる」という言葉を目にしました。歓待とは手厚いもてなしをすることとなっていますので、全ての人に同じように礼を尽くして接するということです。
それが意外と難しいことなのかと思います。施設内でご入居者・ご利用者に同じようにもてなすということになるとマニュアル的になり、感情などの人間らしさが相手に伝わりにくくなり、信頼関係が築けないような気がして、大切なことと思ってはいますが、これが中々。
私が入職した当時、Fさんという90歳を過ぎた女性がご入居されていました。ものすごく面倒見がよく、面白くてはっきりした性格の阿蘇弁丸出しの方でした。人生の大先輩方ですし、それこそご入居されている皆さん全てに公平に敬語で話しかけねばと、Fさんにも敬語でコミュニケーションを取っていましたら、入職して2週間ぐらいでしたでしょうか無視されるようになってしまい、確かかなり落ち込んだ記憶があります。”何で無視されるんだろう…?”と他の職員にも相談できずにいましたら、Fさんの隣の部屋のこれまた優しく面倒見のいいYさん(Fさんと仲良しで同い年くらいの天草出身の女性)から部屋に来てと呼ばれ伺うと、「Fさんわな、あたと熊本弁丸出しでしゃべりたかてたい。やたらと敬語で話しかけてくるけん嫌てたい。せっかく背の高いハンサムさんが来たて気にいっとらすとに、無視せんでもよかとにね~」と教えてくださいました。そこでYさんにお願いし、一緒にFさんを訪室して、敬語でお話しすることは敬意の表れであることをお伝えした上で、自分の祖母などと同じようにしゃべるので無視しないでほしいとお伝えしましたら、「それでよか!敬意があるとはわかっとるけん。Yさんにも熊本弁な!」と言われまして、それ以降ざっくばらんなコミュニケーションをとることとなり、かわいがっていただきました。
当時は様々な境遇の方にそれぞれコミュニケーションの取り方を変えていまして、それが良しとされていた時代でしたが、今はやはり敬意を払った公平なコミュニケーションがベストです。ですのでこの”歓待”という意味では道理が通ります。それでもいまだにこのような敬語だらけの会話・対応を嫌がる方が多くいらっしゃいます。
かなり昔の医学者が、”医療は万人に公平に与えられるものであって、裕福な者にだけ与えられるものではない”といった内容の記述を見たこともあります。これも同じ歓待の意義が込められていると思います。長い歴史の中で貧富の差などで公平な医療が受けられなかった人がいたから、このような言葉が生まれたんだと思います。
私は歓待の気持ちでいながら相手との信頼関係をどう築くかを日々考え、今行きついているところは、”丁寧で優しく一生懸命”であれば対象者に心が届くものと思って努力しているところです。
”歓待” 全ての人に同じように礼を尽くしてもてなすって、かなり難しいことです。
ある日のスナップ くまモンとくまモンみたいな人