私が若草児童学園に勤務してから3ヶ月が経とうとしていますが、職員として常に念頭に置いておくこととされている、本学園の理念「ひとりのいのちにみんなで寄り添う」とはどういうことなのかについて考えてみました。
私は昨年父を亡くしましたが、その父の入院生活の中で母とも死期の話になった時、人にはいろいろと言ってきたのに、いざ自分のこととなると何も言えない、何もできない自分がいることがわかりました。
果たして「寄り添う」とは、まして「いのちに寄り添う」とはどういうことなのか、考えれば考えるほどこの難しさを感じ、日々迷い、悩みながら自問自答を繰り返しています。
ただ、今考えられる「寄り添う」とは、一緒にいて一方的に何かをするということではないということは実感しています。
いくらこちらがよいと思ってやったとしても相手がそれをどう受け止め、どう思っているかまではわからないからです。
仏教の教えに四諦説というものがありますが、それによると人生は苦を乗り越えて生きるものだと説かれています。
そして、その苦には原因があり、それは心の働きによるとされており、苦は欲望や物事に執着する心にあるのだというものです。
つまり欲望の多い人ほど苦しみが多くなるということです。
話すこと、行動することはみな心によってつくられ、そしてその結果をもたらします。
したがって人生に関わるすべてのことは心に寄り添って起こってくるのだというのです。
正直なところ、子どもたちと関わる仕事をしながら常々思っていることは、人間の複雑さや生きることの難しさ、そして自分自身の無力さです。
子どもたちにこうしてほしいとか、あんな風になってほしいと思えば思うほど自分の苦しみが増すのだということがわかってきました。
そこで、私は子どもたちの傍らにたたずんでいるだけでも、その心が子どもたちに向かっていれば、その気配が人に安心を与えるのではないかと考えています。
到底悟りを開いた仏様のようにはなれませんが、せめて、自分の限界をわきまえつつ、あえて子どもたちの傍らに立ち続ける姿勢で臨むことを心掛けるようにしたいと思っています。
つまり、それが「寄り添う」ということのひとつではないでしょうか。
入所部 治部田