若草学園の実践ブログblog

懐かしむ

カテゴリー:若草学園の実践ブログ

今回のブログに何を掲載しようかと考えていたところ、暁荘中村施設長のお父様が自衛官との事で北海道に転勤で住まれていた話をブログで拝見し、私の父も自衛官で沖縄に転勤となり住んでいたころの話をしてみようと思いました。

 

昭和49年、父の転勤に伴い家族で沖縄へ引っ越しました。当時の沖縄は日本に返還されてまだ2年しか経っておらず、車の走行は右車線でした。今は観光地となっているひめゆりの塔や首里城・守礼の門は沖縄戦当時のままで、子どもだった私は、「コワイな。」との印象でしかありませんでした。当初、那覇市内の小学校に通っていたのですが、登下校時、マングースやマイマイと呼ばれている貝に遭遇する事が頻繁で、通学路にある薬局には瓶に入ったハブが店頭に置いてありました。その後、糸満市に引っ越したのですが、校区の小学校は受け入れてもらえず、少し離れた小学校へスクールバスを利用して通いました。歌の文句ではありませんが、周辺は見渡す限り“ざわわ”の世界でした。父の職業柄、生活上受け入れてもらえない事もいろいろありましたが、沖縄の気候と大家族が多い環境もあり、小学校の友達や自宅近くの方はとても温かい方ばかりで、自宅近くで遊んでいると、さとうきびを食べやすく切って渡してくれるおじさんや、お使いでお店にいくと、ご褒美にお菓子をくれるおばさんがいました。そんな環境の中で、私の成長を育んでもらったと思います。子ども達を育てる環境の中で“人”はとても大事な存在だと思っております。

 

 

 ちょっとびっくりするエピソードなのですが、小学校卒業記念に校庭の隅に桜の木を植える事になり、土を掘っていたのですが、なんと手榴弾が発見され大騒ぎになりました。使用済みのものでしたが、糸満市が戦地だった事を物語る出来事でした。

 

 

                        相談支援センターいちばん星 山田