若草学園の実践ブログblog

一水四見(いっすいしけん)

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 6月になり学校も本格的な再開となりました。長期の休みとステイホームから、また元の生活へ、とはいうものの「新しい生活様式」ですね。新入生にとっては特に今月からが新たな学校生活のスタートといえるでしょう。

 さて、九州南部から始まった梅雨入りも熊本まで広がり、雨の多い日か続くこととなります。そのような中で、アジサイの開花と雨音、カエルの鳴き声を聞きながら、ふと窓の外から見える雫(水)を眺めたときに思うことがありました。

 日々子どもたちと一緒に活動をしていく中で、みんなと一緒に行動してくれない、楽しいはずの活動にも興味を示してくれない子がいると、どうしてなのだろうと思うことがあります。子どもは本来自由奔放で、自分が思っているように行動してくれない、自分は面白いと思っていても関心を寄せてくれないことがある。と分かっていても、そのような思いが続くと悩んでしまいます。そのような中で別のスタッフが楽しそうに一緒に活動しているのを見ると、益々どうしてできないのだろうと思ってしまいます。このようなことは、対子どもだけでなく、大人社会でも同様に、うまくいかない、苦手だなと思う経験は誰にでもあると思います。しかし、これはよく考えてみると、そこに単に「その人がいる」だけで、実は苦手と思っている自分自身の気持ちがそう思わせているだけではないのかなと思いました。

 これは物のとらえ方(考え方)の違いによるもので、それを認識する主体が変われば変化するものだといえます。仏教では「唯識」の考え方ひとつに「一水四見」というものがあります。単に「水」といっても見る主体によって四つの見方があり、「天人」「人間」「魚」「餓鬼」という立場で「水」を見た場合、天人には水が透き通ったガラスや宝石のように見える。人間の私たちには、そのままの水に見える。魚たちには住み家と見える。餓鬼には飲もうとした瞬間、火に変わる苦しみの水に見える。という異なった見え方を例えたものです。英語では「Count your blessings」(不満を言う前に)あなたは恵まれていると思いなさいという言葉があります。これは、悪いことにだけに目を奪われず、(神がくださる)多くの恵みに目を向けなさいというものですが、視点を変えるという意味では同様の考えだといえます。

 梅雨の雨は、人にとってはどちらかというと濡れてしまう、じめじめして洗濯物が乾かない、傘を差さないといけないなど面倒なものですが、カエルや植物、農家にとっては恵みの雨といえます。こう考えると環境はそういう世界があるのではなく私たちが作り出しているものだといえます。つまり、同じ世界にみんながいるのではなく、それぞれがそれぞれの世界を作り上げて、世界を見ているということなのではないでしょうか。一つの世界に自分がいてAさんがいてBさんもいると思っていたのですが、そうではなくAさんにはAさんの世界がありBさんにはBさんの世界があり、それぞれの世界で同じものを共有しているということになります。

 私たちは、誰しも生まれ育った家庭環境や教育、経験の違いから、それぞれ違う世界観をもっており、価値観も違います。そのことによって人はそれぞれのことを認識しています。同じものでも人によって、見る、触る、臭う、味わう、感情なども変わることから、それぞれの世界(見方)で全く違ってきます。例えば、おひさまでの活動でおやつを食べるときにこれが顕著に現れます。私にはおいしそうだと思えるお菓子も、Aさんにとっては嫌いなもの、Bさんにとっては生地の味は好きだけど中に入っているフルーツは嫌い、といったことがよくあります。このように「一水四見」という考え方で見ると子どもたちのことも少しは理解できそうな気がします。これまでは自分の世界観を子どもたちに押し付けていたのではないか、子どもといえども一つの世界をもっているということを考えながら、それぞれの世界で共通する(共有できる)ものをみつけていけば、もっと楽しく(楽に)一緒に活動ができるのではないかと考えています。

 

放課後等デイサービス おひさまぷらす

治部田